3. 神様のおきてを知っているだけでは、罪の支配から救い出されません。 私たちはそれを守ることもできないし、実際守ってもいないからです。 ところが、神様は私たちを救うために、別の計画を実行に移されました。 すなわち、神様のひとり息子を、私たちと同じ体を持つ者として〔ただ私たちのような罪の性質を持たない点では異なりますが〕この世にお遣わしになったのです。 そして、彼を私たちの罪のためのいけにえとして、私たちをがんじがらめにする罪の支配を、打ち破られたのです。
4. ですから、今や私たちは、聖霊様に従って歩むなら、神様のおきてに従えるのです。 そしてもはや、古い邪悪な性質の言いなりになることもありません。
5. 低劣な性質の言いなりになっている人は、自分を喜ばせるためにだけ生きています。 しかし、聖霊様に従って歩む人は、神様をお喜ばせしようとしている自分に気づくのです。
6. 聖霊様に従って歩むなら、いのちと平安が待っています。 しかし、古い性質に従って歩めば、死に行き着くのです。
7. 古い罪の性質は、神様に敵対するからです。 古い性質が神様のおきてに従ったことは一度もなかったし、これからも決してありません。
8. ですから、なおも古い罪深い自我に支配されて、欲望に従い続ける者は、決して神様をお喜ばせできないわけです。
9. しかし、あなたがたはそうではありません。 もし神の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、新しい性質に支配されているのです。 〔もしその人のうちにキリストの御霊が住んでおられないなら、その人はクリスチャンではありません。〕
20-21. その日には、いばらやあざみ、罪、死、腐敗など〔この世界は、神様のご命令により、不本意ながら、これらのものに支配されていますが〕は跡形もなく消え去り、私たちを取り巻く世界は、神の子供たちが喜びをもって味わう、罪からの輝かしい解放にあずかるからです。
22. 動物や植物のような自然界のものでさえ、このすばらしい日を待ち望みながら、病気や死の苦しみにうめいていることを、私たちは知っています。
23. そればかりか、クリスチャンでさえ、聖霊様を自分のうちにいただいて、将来の栄光を先取りしているにもかかわらず、苦しみと悩みから解放されたいとうめいています。 また、神様の子供としての完全な権利が与えられるその日を、ひたすら待ちこがれています。 その日には、神様が約束してくださった新しい体、すなわち、もはや病気にかかることも死ぬこともない体をいただくのです。
24. 私たちは、このように信じて待ち望むことで救われています。信じて待ち望むとは、今は持っていなくても、やがて与えられると確信して待つことです。 すでに持っている人は、神様が与えてくださると期待したり、信じて待ち望んだりする必要はありません。
25. しかし、まだ起こっていないことを、神様を信じて待たなければならないのなら、忍耐強く、確信をもって待ち望むことです。
26. 聖霊様も同じようにして――すなわち、私たちの信仰を通して――日常生活の問題や、祈りの中で、助けてくださいます。 私たちは、何を、どのように祈ったらよいかさえ、わからないのですが、聖霊様は、ことばに表わせないほどの切実な感情をこめて、祈ってくださるのです。
27. すべての人の心を知っておられる父なる神は、御霊が私たちのために、神ご自身のお心にかなう願いをささげてくださる時、その願いの意図するところを、もちろん知っておられます。
28. そして私たちは、神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となることを知っているのです。
29. というのは、神様はあらかじめ、だれが自分のもとに来るかご存じで、そのような人々がご自分の息子と同じになるようにと、最初から定めておられたからです。 それは、ひとり息子を大ぜいのクリスチャンの中で長子とするためでした。
30. 神様は私たちを選び、招いてくださいました。 そして、私たちがおそばに行くと、私たちに「無罪」を宣言し、キリスト様の良い性質を下さり、神様との正しい関係を結ばせ、さらに、栄光を与えると約束してくださいました。
31. こんなにすばらしい恵みに対して、いったい何と言ったらよいでしょう。 神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。
32. 神様は私たちのために、たった一人の息子をさえ惜しまずに、死に渡してしまわれたほどのお方ですから、ほかのすべてのものをも下さらないわけがあるでしょうか。