6. しかし、もうユダヤ教のおきてや習慣にわずらわされる必要はありません。 なぜなら、それらに捕らわれていた間に、あなたがたは「死んだ」のですから。そして今では、心から神様に仕えることができるようになっています。 昔のように、一連の規則に機械的に従うのではありません。 心から喜んで、真心こめて仕えるのです。
7. 私が、神様のおきては悪いものだと言っているとお思いですか。 絶対にそんなことはありません。 おきてそのものが悪いわけではありません。 それどころか、おきてが私の罪を明らかにしてくれたのです。 もし「心に邪悪な欲望をいだいてはならない」というおきてがなければ、私は、自分の心にある罪――そこに潜んでいる邪悪な欲望――に気づかなかったでしょう。
8. ところが罪は、邪悪な欲望に対してこのおきてを逆用しました。 このような欲望が悪いことをわからせながら、かえって、あらゆる禁じられた欲望をかき立てました。 破るようなおきてさえなかったなら、罪を犯すこともなかったと思います。
9. 私は、おきてが実際に何を要求しているかを知らなかった時には、気楽に構えていることができました。 しかし、真実がわかった時、自分がおきてを破っており、死を宣告された罪人であることが、はっきりわかりました。
10. ですから、私に関する限り、本来いのちの道を示してくれるはずの良いおきてが、かえって、死の罰を科すものになってしまったわけです。
11. 罪は私をだましたのです。 神様の良いおきてを盾に取り、私を死罪に定めたのですから。
12. しかし、おきてそのものは全く正しく、善であることは、おわかりいただけると思います。
13. でも、はたして納得できますか。 私に死の運命をもたらしたのは、ほかならぬおきてなんですから。 どうしておきてが良いものでありえましょう。 その張本人は、実は、罪なのです。 おきてを利用して死罪をもたらしたのは、悪魔的な、この罪だったのです。 罪がどんなにずる賢く、恐ろしく、いまわしいものか、わかるでしょう。 自分の悪い目的のために、ぬけぬけと神様の良いおきてを利用するのですから。
14. おきては良いものであり、それ自体に問題はありません。 問題はむしろ私にあります。 私は、罪という主人に、奴隷として売り渡されているからです。
15. 私は自分が全くわかりません。 ほんとうは正しいことをしたいのに、できないのです。 反対に、したくないこと、憎んでいることをしてしまいます。
16. 自分の行ないが誤りであること、破っているおきてそのものは良いものであること、それは、よくわかっています。
17. しかし、どうにもできません。 それをしているのは、もはや私ではないからです。 悪を行なわせるのは、私のうちに住みついている、私より強力な罪なのです。