4. どちらも神様に仕えているのであって、あなたに仕えているわけではありません。 神様に対して責任を負うのであって、あなたに責任を負うのではありません。 正しいか、まちがっているかは、神様がその人に教えてくださるはずです。 しかも神様は、その人が正しく行動できるように助けることがおできになります。
5. ある人は、クリスチャンも、神様を礼拝する特別な日として、ユダヤ教の祝祭日を守るべきだ、と考えています。 しかし、他の人は、どの日もみな同様に神様のものだから、いちいちそんな面倒なことをするのは、まちがっているし、ばからしい、と言います。 こうした問題については、一人一人が自分で判断しなければなりません。
6. もし主を礼拝するために特別な日を守っているなら、主をあがめようとしてすることなのですから、良いことなのです。 偶像に供えた肉を食べる人についても、同じことが言えます。 彼はその肉のことで主に感謝しているのですから、正しいのです。 そんな肉には触れようともしない人もまた、主に喜んでいただこうと切に願うからそうするのであって、彼も感謝しているのです。
7. 私たちには、自分の生死をかってに決める権利がありません。
8. 生きるにしても死ぬにしても、主に従うのです。 いずれにせよ、私たちは主のものです。
9. キリスト様の死と復活の目的は、私たちが生きている時も死んでいる時も、キリスト様がいつも私たちの主となられることだったのです。
10. あなたがたには、自分の兄弟(信仰を同じくする人)を批判したり、見下したりする資格はありません。 だれもが、神様のさばきの座の前に立つことを、忘れてはなりません。
11. 次のように書いてあるとおりです。「主は言われる。 わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」
12. そうです。 一人一人が、神様に申し開きをすることになるのです。
13. ですから、これからはもう、批判し合ってはいけません。 むしろ、人をつまずかせないように生活しようと心がけなさい。 兄弟が「悪いことだ」と信じていることを目の前でしてみせて、彼をつまずかせるようなことは、絶対にいけません。
14. 私個人は、主イエスの権威に基づいて、はっきり確信しています。 偶像に供えた肉を食べることは悪くありません。 しかし、それを悪いと信じている人がいるなら、悪いことは避けるべきですから、その人は食べてはいけません。
15. 兄弟が、あなたの食べる物のことで心を痛めているのに、そのまま平気でいるとしたら、愛によって行動しているとは言えません。 あなたの食べる物のことで人を滅ぼしてはなりません。 その人のためにも、キリスト様は死なれたのです。
16. たとい自分の行為は正しいとわかっていても、人の批判の的になるようなことをしてはなりません。
17. なぜなら、私たちクリスチャンにとって大切なのは、何を食べるか何を飲むかではなく、正しさと、平安と、聖霊様から来る喜びとに、満ちあふれているかどうかだからです。
18. このようにキリスト様に仕えてこそ、神様に喜ばれ、また、人々にも喜ばれるのです。
19. こうして、教会内の調和を目指し、互いに助け合って成長するように努めなさい。
20. ささいな肉の問題で、神様の働きを台なしにしてはなりません。 肉そのものは別に悪くなくても、それが他人のつまずきとなるなら、肉を食べるのはよくないということを、忘れないでください。
21. 肉だけに限りません。 酒の問題でも、そのほか何でも、兄弟をつまずかせたり、罪を犯させるようなことは一切やめなさい。 それこそ正しい行ないです。