6. なぜなら、ダビデは旧約聖書の詩篇の中で、こう神様に語りかけているからです。「あなたが、こんなにも大きな関心をお寄せになる人間とは、いったい何者でしょう。こんなにも高い栄誉をお与えになった人の子とは、いったいどなたでしょう。
7. あなたはその方を、しばらくの間、御使いよりも低いものとなさいましたが、今は、栄光と誉れの冠をお授けになりました。
8. そればかりか、この世に存在するものすべてを支配する権威を、お与えになったのです。」その支配を逃れるものは、何一つありません。 私たちはまだ、このことばの完全な実現を見てはいません。
9. しかし、しばらくの間、御使いよりも低くされ、私たちのために死の苦しみを味わうことにより、今は栄光と誉れの冠を授けられた、イエス様を見ています。 まことに、イエス様は、神様の大いなる恵みのゆえに、全人類のために死なれたのです。
10. 栄光を現わすために、すべてのものをお造りになった神様が、ご自分を信じる者たちを天まで引き上げるため、イエス様を苦しみに会わせたのは、まことに正しいことでした。 この苦しみをくぐり抜けて、イエス様は人々を救いに導くにふさわしい、完全な指導者となられたのです。
11. イエス様によってきよめられた私たちは、今では、イエス様と同じ父を持っています。 だからこそ、イエス様は、私たちを兄弟と呼ぶのを、恥とはされないのです。
12. イエス様は、旧約聖書の詩篇の中で、こう言っておられます。 「わたしは、父なる神のことを、兄弟たちに語ろう。 そして、声を合わせて神を賛美しよう。」
13. また別の個所で、「兄弟たちと共に、神を信じよう」と言い、さらに「さあ、わたしはここにいる。 神が与えてくださった子供たちといっしょに」と述べておられます。
14. 神様の子供である私たちは、血も肉もある人間です。 そこでイエス様も、血肉を持った人間の姿でお生まれになりました。 それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。
15. これだけが、死を恐れて、一生涯、恐怖の奴隷となっている人々を、救い出す方法だったのです。
16. 私たちはみな、イエス様が、御使いとしてではなく、一人の人間、一人のユダヤ人として来られたことを知っています。
17. イエス様には、あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。 そうしてはじめて、イエス様は、私たちにとってはあわれみ深く、神様にとっては忠実な大祭司として、私たちの罪を取り除くことができたのです。