16. 私たちが聖餐式で主の食卓に着き、ぶどう酒を飲んで、主の祝福を求める時、それは、そのぶどう酒を飲む者がみな、キリスト様の血の祝福を共に受けることを、意味しないでしょうか。 また、一つのパンをちぎって共に食べる時、それは、私たちがキリスト様の体の恩恵を共に受けることを、示すのではないでしょうか。
17. 私たちの数がどんなに多かろうと、問題ではありません。 みな同じパンを食べて、同じキリスト様の、体の部分であることを示すのです。
18. ユダヤ人のことを考えてごらんなさい。 供え物を食べる者はみな、それによって一つとされているのです。
19. 私は何を言おうとしているのでしょうか。 異教徒たちが供え物をささげる偶像は、実際に生きているとか、ほんとうの神であるとか、あるいは、偶像への供え物に何か価値があるとか、言おうとしているのでしょうか。 とんでもありません。