3-4. さらに神様は、奇蹟によって、荒野で彼らに、食べ物と飲み水をお与えになりました。 彼らは、キリスト様から水をいただいたのです。 キリスト様は、信仰に新しい力を与える力強い岩として、いっしょにおられたのでした。
13. ただ、このことを覚えていてください。 あなたがたの生活の中に入り込む悪い欲望は、別に新しいものでも、特別なものでもないということです。 ほかにも多くの人たちが、あなたがたよりも先に、同じ問題にぶつかってきたのです。 どんな誘惑にも、抵抗するすべはあります。 神様は決して、とてもたち打ちできないほどの誘惑に会わせたりは、なさいません。 神様がそう約束されたのであり、神様の約束は必ず実行されるのです。 神様は、あなたがたが、誘惑に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます。
14. ですから、愛する皆さん、偶像礼拝は、どんなものでも、用心深く避けてください。
15. あなたがたは頭がよいのですから、私の言うことが正しいかどうか、自分で考え、判断してください。
16. 私たちが聖餐式で主の食卓に着き、ぶどう酒を飲んで、主の祝福を求める時、それは、そのぶどう酒を飲む者がみな、キリスト様の血の祝福を共に受けることを、意味しないでしょうか。 また、一つのパンをちぎって共に食べる時、それは、私たちがキリスト様の体の恩恵を共に受けることを、示すのではないでしょうか。
17. 私たちの数がどんなに多かろうと、問題ではありません。 みな同じパンを食べて、同じキリスト様の、体の部分であることを示すのです。
18. ユダヤ人のことを考えてごらんなさい。 供え物を食べる者はみな、それによって一つとされているのです。
19. 私は何を言おうとしているのでしょうか。 異教徒たちが供え物をささげる偶像は、実際に生きているとか、ほんとうの神であるとか、あるいは、偶像への供え物に何か価値があるとか、言おうとしているのでしょうか。 とんでもありません。
20. 私が言いたいのは、偶像に物を供える人は、もちろん神様にではなく、悪霊にささげる点で、みな一つに結ばれているということです。 あなたがたの中から、偶像への供え物を異教徒たちと共に食べたりして、悪霊の仲間になる人など、一人も出てほしくありません。
21. 主の食卓の杯と悪霊の食卓の杯の両方を飲むことはできません。 同じように、主の食卓のパンと悪霊の食卓のパンを、両方とも食べることなどできません。
22. いったい、あなたがたは、主を怒らせようとしているのですか。 自分が主よりも強いとでも言うのですか。
23. もし食べたければ、偶像への供え物を食べても、一向にかまいません。 その肉を食べても、神様のおきてに反しません。 しかし、だからといって、それをどんどん食べてよい、ということにはなりません。 たとい、少しもおきてに反しないことでも、最善とは限らず、また有益でない場合もあるのです。
24. 自分のことばかり考えてはいけません。 他人を思いやり、何がその人にとって最善か、よく考えなさい。
25. こうすればよいのです。 市場で売られている肉は、どれでも自由に食べなさい。 それが偶像に供えられた物かどうか、いちいち尋ねなくてよいのです。 そうすれば、良心を傷つけることもないでしょう。
26. 地と、地上にある良いものはみな、主のものであり、あなたがたを楽しませるために、あるのですから。
27. クリスチャンでない人から食事に招待された場合、行きたければ、行ってかまいません。 そして、出される物は、何でも食べなさい。 それについて、いちいち尋ねてはいけません。 尋ねなければ、偶像に供えられた物かどうかわからないし、食べて良心が傷つく心配もありません。
28. しかし、もしだれか、「この肉は偶像に供えられたものです」と注意してくれる人がいたら、その人のために、またその人の良心のために、出された肉を食べるのはやめなさい。
29. この場合、肉についての自分の判断よりも、相手の考えが、大切なのです。しかし、あなたはこう言うでしょう。 「なぜ、他人の考えに支配されたり、束縛されたりしなければならないのですか。
30. 神様に感謝してそれを食べることができれば、他人から、とやかく言われる筋合いは、ないではありませんか。」
31. では、その理由を申しましょう。 つまり、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神様の栄光のためにすべきだからです。
32. ですから、相手がユダヤ人であれ、外国人であれ、クリスチャンであれ、だれをも、つまずかせてはいけません。