4. ほんとうに最善を尽くしているかどうか、もう一度、点検しなさい。 そうすれば、よくやれたと自分で満足でき、他人と、とやかく比較することもなくなるでしょう。
5. 人はみな、それぞれ自分の欠点や悩みを背負っています。 一人として、完全な人間はいないのです。
6. 神様のことばを教えてくれる人には、報酬を払い、援助しなさい。
7. 思い違いをしてはいけません。 いいですか。 神様を無視することなど実際には不可能であり、種をまいた人は、必ずその刈り取りもすることになるのです。
8. 自分の悪い欲望を満足させるために種をまく者は、その結果、きっと霊的な滅びと死とを刈り取るはめになります。 しかし、聖霊様のよい種をまく者は、聖霊様が与えてくださる永遠のいのちを刈り取ります。
9. 正しい行ないをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。 失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。
10. ですから、機会さえあれば、だれに対しても、特にクリスチャンには、親切にしましょう。
11. この最後のことばは自筆でしたためます。 見てください、この大きな字を。
12. 何のために、例の教師たちがあなたがたをくどいて割礼(男子が生まれて八日目にその生殖器の包皮を切り取る儀式)を受けさせようと図るのか、わかりますか。 その理由は、ただ一つです。 すなわち、そのようにして人気を得、迫害を免れたいのです。 その迫害とは、キリスト様の十字架が唯一の救いの道であると認めるなら、必ず受けるものなのです。
13. そうした割礼を主張する教師たちも、それ以外のユダヤ教のおきては守ろうとしません。 そのくせ、あなたがたに割礼を強要するのは、弟子をふやして誇るためなのです。
14. しかし私に関するかぎり、主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものなど、決してあってはなりません。 この十字架によって、私は、この世の魅力的なものすべてに対して、ずっと以前に興味を失ってしまいました。 そしてこの世も、私に対する興味をすっかり失ってしまったのです。
15. 割礼を受けているかいないかは、今や、全然問題ではありません。 大切なのは、私たちがほんとうに別の新しい人に造り変えられているかどうか、ということです。
16. どうか、この原則に従って生きるあなたがたに、また、真に神様のものとなった、至る所のクリスチャンにも、神様のあわれみと平安がありますように。
17. 二度と、こんな問題で論じ合わないようにしたいものです。 私の体には、イエス様に敵対する者からむち打たれ、傷つけられた跡が残っていますが、それこそ、キリスト様の奴隷であることの、しるしなのですから。