1. しかし、次の点に心をとめてください。 ある父親が、小さな子供にばく大な財産を残して死んだとします。 その場合、子供は、実際には父の全財産の持ち主ではあっても、大きくなるまで、奴隷とほとんど変わらない立場にあります。
2. つまり、父の定めた年齢に達するまでは、後見人や管理者に従う義務があるのです。
3. キリスト様が来られるまでは、私たちもそれとよく似た立場にありました。 ユダヤ教のおきてや儀式によって救われると考えて、その奴隷となっていたのです。
4. しかし、ちょうどよい時が来ると、神様は自分のひとり息子を、女から生まれた者、ユダヤ人として生まれた者として、お遣わしになりました。
5. それは、おきての奴隷になっていた私たちを買い戻して、自由の身とするためであり、神様の子供として迎えてくださるためなのです。
6. このように、神様は、子としての私たちの心に、神の子の御霊を送ってくださいました。それで今、神様を「お父さん」とお呼びできるのです。
7. 私たちは、もはや奴隷ではありません。 神様の子供です。 子供であるからには、神様の持っておられるものはすべて、私たちのものです。 それが神様の計画だからです。
24-25. ところで、この実話は、神様が人間を助けるために開かれた二つの道を示しています。 一つは、おきてを提示して、それを守るようにとお命じになった道です。 神様は、シナイ山でこの道をお示しになりました。 その時、モーセに「十戒」をお与えになったのです。 ちなみに、このシナイ山を、アラビヤ人は「ハガル山」と呼んでいます。 このたとえでは、アブラハムの奴隷である妻ハガルは、戒めに従うことによって神様に喜ばれようとする生き方の象徴、ユダヤ人の母なる都、エルサレムを表わしています。 そして、この生き方に賛同するユダヤ人は、すべてハガルが産んだ奴隷の子供なのです。